庶民のお寺であった念来寺
念来(ねんらい)寺は市内における数少ない天台宗寺院で、江戸時代の元和5年(1619)、唱岳長音和尚が開基となって開山されました。その後、江戸時代の中ごろには空幻明阿(くうげんみょうあ)上人が中興して寺観を改めました。水野氏の治世下に編さんされた『信府統記』(しんぷとうき)にも、このころの念来寺の様子が、「一層寺域を広め寺を新たにし、鐘楼を新築し、時の鐘をつかしめた」と記されています。
廃仏毀釈
明治維新のとき、松本県知藩事戸田光則(みつひさ)によっておこなわれた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)は全国的にも例を見ないほど徹底したものでした。念来寺もその例外ではなく、鐘楼のみを残して本堂をはじめとした建築物は取り壊され、廃寺となりました。仏像・仏具などは念来寺の法類(同宗で同じ派に属し、親しい関係にある寺院のこと)であり、もと天領(江戸幕府の直轄地)であったため廃仏毀釈の荒波が押し寄せなかったといわれる市内和田の西善寺に移され、難を逃れています。
松本市内の寺院の多くが領主の祈願寺や菩提寺(ぼだいじ)として維持されてきたのに対し、念来寺はもっぱら庶民の信仰によって維持されてきました。これはこの地に来て自宗を広めた天台律宗の唱岳長音和尚や、中興の明阿上人の力です。現在残る念来寺鐘楼や、西善寺に残る数々の仏像・仏具は、多くの人々の信仰を集めた往時の様子をよく伝えています。
軽快な作りの鐘楼
鐘楼は宝永2年(1705)の建立です。入母屋(いりもや)造り、袴腰(はかまこし)付きの建物で、楼上の柱間は二間に三間、軒は板庇(ひさし)で軒垂木は使わず、軒裏の全面には雲形の彫刻がされています。用材はすべて欅(けやき)で、内部の格天井(ごうてんじょう)の中央、鐘の釣座には方位盤と鐘楼銘があります。屋根は銅板葺きで勾配はゆるく軽快な反りをつけ軒は深いです。破風(はふ)飾りも大瓶束(たいへいづか)を含め念入りに造られています。彫刻部の蟇股(かえるまた)には地方色が濃く、かぶら懸魚(けぎょ)の出来もよいものです。建物の高さは12.67m、袴腰の裾張りは7.8m、軒下7.67m、楼床の高さは地上4.4mです。
鐘楼に釣られた銅鐘は、松本本町の名工、鋳物師(いもじ)田中伝左ヱ門吉繁の作の大型の立派な鐘でした。大正10年(1920)に至るまで江戸時代からの「時の鐘」がつかれていたといいます。太平洋戦争の折り、この銅鐘と勾欄(こうらん)につけられていた青銅の擬宝珠(ぎぼし)はすべて供出されてしまい、現在は残っていません。
松本市には長称寺・極楽寺・正麟寺・浄林寺・牛伏寺・筑摩神社(旧安養寺)等多くの鐘楼がありますが、それらの中で規模も大きく建築も優れています。
昭和44年7月4日、松本市重要文化財に指定された後、平成24年3月22日に長野県宝に指定されました。
所有者:妙勝寺
*「まつもとの宝」より引用いたしました。
梵鐘復元事業
令和2年3月12日、復元した梵鐘の取り付けが行われました。
事業詳細は、松本市HPをご覧ください。画像↓は松本市HPより頂きました。